稲作は縄文時代に伝わった!? 常識が変わる「末盧国」の遺跡巡り
古代遺跡の旅【第2回】 魏志倭人伝ゆかりの地を巡る。―その②―
●久里双水古墳
青空の下、古墳がこんもり盛り上がって、待っていてくれた。
墳丘が高い…!グンと仰いで見上げるほどだ。
久里双水古墳は、昭和55年、宅地造成事業に伴う調査で、前方後円墳であることが確認された。非常に大型で状態も良く、保存が決まったというラッキーな古墳である。
とにかく登ってみよう。墳丘を見るとアタックせざるを得ないというのが、古墳好きのサガなのだ。
どんどん登るがこれはかなりの急斜面である。
全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8m。前方部の下半部が、自然の地形を利用した地山の削り出しで造られ、前方部の上半部が盛土という特殊な方法で築造されているらしい。しかも築造年代が4世紀前半の可能性があることも判明した。そんな早い時代に、100m級規模の前方後円墳が築造されているとは…。
この古墳からは盤龍鏡(ばんりゅうきょう)や管玉(くだたま)、刀子(とうす)などが出土。後円部の墳頂に、竪穴式で、粘土で覆われた石室が発見されている。
4世紀にすでに、この地域にはよほどの力を持った一族がいたということになるが、墳丘を登りきって、後円部の真ん中に立つとその理由がすぐわかった。すぐ近くを松浦川が悠々と流れ、ぐるりとカーブして、その先に深い青に輝く唐津湾が見渡せる。カラ(大陸)への架け橋となった唐津の海である。このあたりの水運をいち早く掌握した聡明な人物が、ここに眠っているのだろう。
稲作もそうだが、いち早く、大陸の文化が上陸し、それを受け入れ、他地域に伝えると共に、自分のクニの文化を醸成させて発展させていく。優れた能力を持つリーダー的な人物が被葬者として浮かび上がってくる。
付近には5基の古墳の存在が明らかになっている双水迫古墳群もあり、久里双水古墳との関係が深いと考えられている。
形も景色も素晴らしく、どこか生き生きとした活力に満ちた古墳はとても魅力的だ。
こんな素晴らしい古墳が壊されなくてほんとうによかったとしみじみ思う。
緑の古墳のふもとは市民の憩いの場所として公園整備されている。広場では少年たちが野球の練習をしていて、元気な声が響き渡る。人と共に古墳は在る。その幸せな形の一つが、久里双水古墳のような保存方法といえるだろう。
古墳が大好きな筆者としては、ラストを久里双水古墳という素晴らしい古墳で締めることができて、かなり幸せだ。
でも。その前には弥生時代があり、縄文時代があった。古くからの営みが続くからこそ、社会の仕組みが生まれ、力あるリーダーが登場し、その象徴のような古墳が築造されたのだ。
そう考えると、今回の旅の一番の収穫は、稲作の始まりが、教科書より、さらに古く遡った縄文の年代にあったということ、その始まりの地が、この末盧国だったことを知ったことに尽きる。この地が発展するための礎。それがあって、久里双水古墳という立派な古墳築造へと繋がっていくのだ。
魏志倭人伝の中でもその豊かさが描かれている末盧国は、邪馬台国とも、卑弥呼とも、緊密な関係があったように思う。だからといって、即、邪馬台国の秘密を解き明かすことにはならないけれど…。やはり九州は侮れない。そして、事実、九州に大きな力を持つクニづくりの萌芽があったわけで、私たちの今の社会、暮らしの原型が、この地にあることは確かだと思う。
胸を打ったのは、「末盧館」で見たように、縄文人と弥生人の相互補完関係が成り立っていたことだ。生きることに厳しく、皆が必死な時代、相手を打ち負かす争いは賢い選択ではなかったはずだ。その土地の風土をよく知る縄文人と、新たな技術を持つ弥生人。互いの知識や技を補完しながら、新たな暮らしをかたちづくっていったのではないだろうか。
人がいて、食べて、生きて、歴史をつくっていく。そこに助け合い、共生していこうとする、人間のプリミティブな叡智が必ずあったと思う。
私たちの歴史と文化には、私たち日本人の主食である米の存在は絶対不可欠なものだ。「末盧館」に再現されている稲田を見ると、今の水田よりも区画も小規模であったかもしれないが、秋の収穫に向けて、田を耕し、水を引いて、田植えをし、天に祈りながら、豊かな実りを待ったのだろうと想像できる。ブタの顎の骨の出土品を見ても、五穀豊穣の祭祀を行う人々の姿が思い浮かんでくる。現代も日本各地で五穀豊穣を感謝する秋祭りが行われている。この令和の時代までずっとずっと繋がる日本人の心のありようが、胸に迫る。
末盧国で、私たちの暮らしの祖形をしっかりと見せてもらった気がする。